『自閉症だったわたしへ』の内容(1)
『自閉症だったわたしへ』を読むと、自閉症の人がどんなふうに感じ、どんなことを考えて日常生活を送っているかがわかる。
自閉症の人の生活は、そうでない人には想像もつかない驚きにみちている。
そもそも見えている色や聞こえている音がまったくちがうようだ。
作者(この本の主人公)のドナはとびぬけて視力がよく、光の粒子までもが視覚に感知されるという。
自閉症のドナに特徴的なのは、人間に興味がないということだ。
人間よりもカラフルで美しい物に心惹かれて、それが好きすぎて、物と一体化(?)さえしてしまう。
そういう遊びに1人で夢中になっていて、人から話しかけられても声が耳に入ってこない。
それで耳が聞こえないとか、頭がおかしいと疑われたりする。
自閉症児は幼い頃から他の人たちとは全然ちがっている。
ドナはかつて私の小学校のクラスにいた問題児の男の子を思い出させる。
授業中に騒いだり、暴れたり、いきなり外に逃げ出していったり、それをクラス中で追いかけたりしたことが実際にあった。
その子はもしかしたら自閉症児だったのかもしれない。
ドナも学校で彼とまったく同じような行動をとって、問題児認定されている。
子どものときから変人扱い、バカ呼ばわりをされ続けて生きている。
母親や兄からもバカにされていじめられ、日常的に暴力をふるわれるのが当たり前の生活だ。
父親はドナにやさしかった。
ドナの特殊性を認めて、受け入れて、ドナの独自の感覚や世界観によりそって遊んでくれた。
だが父親はドナから離れていき、ドナは孤独に追い込まれた。
祖父母や親戚のおばさんにもドナにやさしい人がいた。
が、毎日一緒に過ごしている肝心の母親が毒親であり、特大のモンスターペアレント(字義どおりの)だった。
ドナは物心ついたころには、母親からことあるごとにビシバシとたたかれていた。
たたかれる状況がドナには把握できなかった。
絶え間ない暴力にさらされて、ついには暴力に対してまったく無感覚になってしまった。
肉体と精神が切り分けられた。
そして多重人格のように、ドナの中に危機を乗り切るための別人格があらわれ始めた(『24人のビリー・ミリガン』の世界)。
それら複数のキャラクターをつかって、ドナは他人に対して演技することをおぼえる。
愛想のいいドナもいるが、自分の意志とは関係なく、非常に攻撃的な態度をとってしまうドナもいる。
ドナの体は別人格にのっとられ、ドナは自分自身をコントロールすることができない。
ドナの感情はどこかに置き忘れられてしまう。
ドナはとても頭がいい。
学校では教師の話もよく聞けず(なにを言っているのか理解できない)、テスト問題を見てもよくわからないのに、クラスでトップの成績がとれたりする。
とにかく『こんな人間が存在するのか!』と仰天させられる。
でもドナは現実に存在して、良い精神科医と出会って、こうして自伝を書いている。
人間の体質にこれほど幅があり、可能性があるということを知るにはいい本だ。
リアル自閉症者との交流
私はこれまで自閉症の人とは1人だけ接触したことがある。
東北のかつて夫の実家だった住宅地の一軒家に住んでいたとき、隣の家のおばさんと仲良くなった。
おばさんは60代で、お姉さんと2人暮らしをしていた。
東北に引きこもる前は東京で中華料理店を営んでいたという。
だから料理が上手で、おかずをおすそわけしてもらったり、ときどき隣の家にあがりこんでご馳走してもらったりしていた。
おばさんの家には東京の店でつかっていた店名入りの食器があり、いくつか私にも分けてくれた。
大きなラーメン丼と小さなスープ鉢だった。
それから20年以上経過したが、今でもその小鉢が家にある。
それで自閉症はといえば、おばさんのお姉さんが自閉症だった。
台所兼居間のような部屋に上がって、私はちゃぶ台に腰かける。
おばさんは部屋のあっち側で料理をしていて、私の向かいにはお姉さんがすわっている。
話しかけても、彼女は返事をしない。
ただ愛想がわるいというわけでもなく、なにもしなくても自足してる感じだ。
そういえばその家ではビーグル犬を飼っていて、お姉さんは犬をなでることが好きみたいだった。
ドナも毛皮の感触がたとえようもないほど好きだという。
自閉症のお姉さんもドナと同じように毛皮の感触をうっとりと楽しんでいたのだろうか。
そうかもしれない。
犬をなでている彼女はうれしそうで幸せそうに見えたから。
あとは2人で黙ってすわっている。
おばさんがむこうの方から私に話しかけていて、私はあいづちを打つ。
おばさんはゆったりとした包容力のありそうな人だったので、お姉さんのそのままの性質を受け入れて、2人は平和に暮らしていたのだろうか。
おばさんは自分の母親が亡くなった年齢である64歳を超えたのだと感慨深げに話していた。
現在は80代であろうおばさんはどうしているのだろうか。
自閉症のお姉さんも、今でもあの家で2人で暮らしているのだろうか。
『自閉症だったわたしへ』の内容(2)
ドナはある事件をきっかけに良い精神科医と出会い、状態も安定して、高校に復学する。
それから大学に進学した。
授業をうけ、本を読み、自分の子ども時代からの状況を客観的に分析しはじめた。
ドナは、ドナが陥っている困難は、幼い頃から母親に虐待されたことが原因ではないという。
たしかに虐待される以前からドナには自閉症の性質があり、それが原因で母親が暴力をふるうようになったともいえる。
そして暴力がさらにドナを自分の世界に引きこもらせていく。
だいぶあとにわかった新事実としては、ドナにキャロルとウィリーという別人格が現れたのは、複数の食品に対するアレルギー体質と低血糖が原因だということだ。
食生活を改善することでドナの性質はまるで人間が変わったかのように穏やかで落ち着いたものになった。
ドナにとっては子どもの頃から安心して暮らせる家はなかったが、大人になっても住まいや一緒に住む人が変動しがちだった。
仕事や収入も不安定で、トラブルに陥りやすく、いろんなことが長続きしない。
あるときは友だちとオーストラリアからイギリスに渡った。
あてどない貧乏旅行が始まる。
でも運命的な出会いがあった。
ドナと同じような風変わりな性質の男性とウェールズ行きの列車で知り合う。
他人から見れば頭がおかしいかのように見える(家族からもそう言われている)彼は、ドナにとっては普通の人で、ドナと同じ種類の人間だ。
互いに黙っていても完全に理解し合える2人の出会いはとてもドラマチックで、感動的だ。
ドナが26歳のとき、図書館で自閉症について書かれた本を見つけた。
そこには自閉症者の特徴が記されていた。
・ことばを真似ること
・触れられることに我慢できないこと
・つまさきだちで歩くこと
・音が苦痛であること
・ぐるぐる回ったり飛んだりすること
・体を揺らすこと
・繰り返しが好きなこと
ドナは自閉症だが、その性質のすべてを矯正される必要はなかった。
ドナは過去にさかのぼり、自分自身の心を見つめなおし、文章でつづった。
それを児童精神科医に読んでもらうと、出版をすすめられた。
ついに自閉症のドナは彼女自身の本質を前面に出して人生を生きることができるようになったのだ。