なんとか自分を元気にする方法

応仁の乱がわからない

のらねこ

のらねこ

学生時代に日本史の授業でならったはずの応仁の乱。

日常生活を送っていて本などを読んでいるときたまに「応仁の乱以降…」といったフレーズがでてくることがある。

これまでずっと「応仁の乱」という言葉は聞かなかったことにしてスルーしてきたが、応仁の乱はどうも有名だし重要らしい。

仕方ないので思い腰をあげて、図書館に応仁の乱の本をさがしに行った。

図書館の日本史コーナーに行っても、応仁の乱がタイトルに入っている本はほとんどない。

呉座勇一氏の『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』が唯一の本だった(別の図書館でも状況は同じ)。

なのでこれを借りた。

呉座勇一氏の名前は歴史が苦手な私でも聞いたことがあったので、『売れっ子が書いた読みやすい歴史本かもしれない』と期待が高まった。

呉座氏は1980年に東京で生まれた。

(Wikipediaより)呉座勇一は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。学位は、博士(文学)(東京大学)。ベストセラーとなった新書『応仁の乱 ― 戦国時代を生んだ大乱 ―』の著者。『応仁の乱』で書店新風賞 特別賞を、『戦争の日本中世史』で角川財団学芸賞を受賞。2024年4月現在、国際日本文化研究センター研究部助教(専任教員)。

呉座氏にとっても『応仁の乱』が出世作のようだ。

とはいえ・・・

結果的にいえば、呉座氏の『応仁の乱』は歴史が苦手な人間にとっては読みやすい本ではなかった。

『同業の歴史学者にむけて書かれているのでは?』と思ったくらいだ。

記述が細かすぎるし(1466年○月○日に誰々がどうしたとか)、応仁の乱の100年前、200年前、300年以上前に誰々がどうしたとかから話が始まるし…

登場人物は知らない人ばかりだし、後からどんどん増えていくし、日本史のマニアックな専門用語が全然わからないし。

応仁の乱が難解な歴史イベントであることもあり、理解するのは困難をきわめた。

それで、応仁の乱についてわかったことは・・・

・応仁の乱は、1467年から1477年の約10年間にわたって争われた「日本史上最大の内乱の一つ」

・結果的・間接的に日本史上において区切り目的なイベントとなったらしい。

・「徳川家康」クラスの有名人が参加していない。徳川家康をA級としたらC級~D級の歴史人が無数に登場する。

戦乱の主戦場は京都。地方から大名たちが上京して戦う。応仁の乱後半では争乱が地方に飛び火する。応仁の乱終息後、大名たちは地方に戻る。

応仁の乱勃発当初は京都のみが戦場であったが、やがて戦乱は地方に波及し、全国各地で合戦が行われた。これだけ大規模で長期にわたる戦乱なのに、大名たちが何のために戦ったのか見えてこないというのは不思議である。(『応仁の乱』の「はじめに」より)

 

応仁の乱が難解なのは、なぜ戦乱が起こったのかよく分からないし、最終的に誰が勝ったのかもよく分からないからだろう。(『応仁の乱』の「はじめにより」)

 

東洋史家の内藤湖南(こなん)は以下のような重大発言をしたという。

大体今日の日本を知る為(ため)に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆(ほとん)どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居(お)ったらそれで沢山(たくさん)です

 

・「全く天才のなかった(内藤談)」足利時代の間に応仁の乱は起こった。足利時代とは・・・

(Wikipedia【室町時代】より)足利尊氏が建武式目を制定した1336年または征夷大将軍に補任された1338年から、15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放される1573年までの237年間、もしくは235年間を指す。

 

・応仁の乱の火種の1つは京都のすぐ南方にある奈良の興福寺にあった。興福寺内には一乗院(近衛家)、大乗院(九条家)という2大派閥があった。当時の僧侶は半分が僧兵で荒々しかった。

・奈良には他にも火種があった。この地方の大名たちもこぜりあいを繰り返しており、1428年に起こった京都郊外の土一揆(百姓の反乱)から波及して、奈良でも大名があおって土一揆を起こしたりと、不穏な情勢だった。

・奈良におけるリーダー的存在の興福寺は混乱をおさめるため、また権威を借りるために足利幕府に助力を願った。幕府の号令で地方から援軍が集まりこのときのゴタゴタは終息した。

 

・1400年代初頭、室町幕府の勢力はすでに弱まっており、足利将軍が各所に停戦命令などを出してもスルーされることがあった。

 

・応仁の乱が始まる直前(1464年)に「(室町)幕府には3つの政治勢力があった」:

(1)足利義政(父)ー足利義尚(子)の相続ラインを支持する「伊勢貞観(義尚の養育係)を中心とする義政の側近集団」

(2)「大名・山名宗全(やまなそうぜん)をリーダーとする集団」。足利義政の弟である足利義視(よしみ)を支持。

(3)「大名・細川勝元(かつもと)をリーダーとする集団」。(1)と(2)の中間の立ち位置。足利義政ー義視ー義尚の相続ラインを支持。穏健中道派。

(※注)当初、足利義政には男子がなかったので弟の義視を後継者として指名した。義視は僧籍にあったが還俗し義視と名乗った。その直後、義政の妻・日野富子が義尚を産み、後継者争いの火種となった。

・さらに上記の3つの政治勢力が(2)と(3)の2つに集約する事件があった。「文正(ぶんしょう)の政変」だ。文正元年(1466年)「義視に謀反の疑いあり」と伊勢貞観が讒言。兄の義政は義視を誅殺しようとしたが、山名宗全と細川勝元が抗議。両者は義視を支持し、義視を将軍とする暫定政権を打ち立てる。伊勢貞観は失脚した。

・上記の足利政権の後継者争いが応仁の乱の火種の1つだし、家臣の大名同士でもあれこれ因縁がある。

 

・東軍と西軍の2大派閥ができて、権力争い的なこぜりあいが続いた。

・「東軍の総大将が細川勝元で、西軍の総大将が山名宗全

・その他のメンバーは、東軍【畠山政長、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢】、西軍【畠山義就(よしひろ)、斯波義兼(よしかど)、一色義直、土岐成頼(ときしげより)、大内政弘】

・それぞれが土地をめぐる争いやライバル関係、地方での権力争いの延長線上で利害関係を考慮して東西いずれかの派閥に所属を決めた。でも状況が変わるにしたがって、敵対勢力に寝返ったりする人も出るので、ますますよくわからなくなっていく。

・「両軍の兵力は東軍16万騎、西軍11万騎」(『応仁記』より)

・「1994年、NHK大河ドラマで応仁の乱を題材にした『花の乱』が放送された」(『応仁の乱』の「はじめに」より)

 

 

 

 

呉座勇一著『応仁の乱』のAmazon商品ページ(Kindle版)

呉座勇一著『応仁の乱』のAmazon商品ページ(新書版)

モバイルバージョンを終了